ESSAY

 第1回 佳作

或る夜の出来事

麻田 修一 様 (埼玉県)


 時が止まっていた。
 気が付くと左手の腕時計の文字盤に目を凝らしている。同じ動作を、もう幾度繰り返しただろうか。秒針のないその時計は、いっかな動いている気配を感じさせないのだ。
もう随分長い間こうしているようだが、どれほどの時間も実のところ経ってやしないのだ。
妻が分娩室に入ってから4時間余り。輝かしい「その時」を心待ちにしているのだが、一向にそんな時が訪れる気配すらしない。いつしか深夜の1時を回っていた。
窓伝いに外の闇が侵入してくるかのように、重苦しい澱みのようなものが古めかしい産院の待合室を包み込む。僕が今見ている同じ壁の染みを、これまで一体何人の男達が為す術もなく凝視したのだろうか。
 繰り返し押し寄せる陣痛のリズムに合わせて、分娩室の中から切れ切れに妻の苦しげなうめき声が聞こえる。そして、それにあわせるような看護婦や助産婦らの励ましの声が。
どうせなら男の子がいい。
誕生祝いはサッカーボールだ。いつ一緒に球蹴りができるだろう。
昨日は呑気なことを考えていられたものだ。いまこの瞬間待ちわびているのは、達成感に充ち微笑む妻の傍らで、弾ける様に元気な産声をあげる我が子の姿だ。
男か女か、それがどうしたというのだ。今はただその瞬間、その場面を待ちわびているだけなのだ。
 倦怠がそろそろ期待に変わろうかという頃、不意に分娩室の中が騒がしくなる。
カーテンのかかった硝子越しからも胸を刺すような怜悧な緊張感が伝わってくる。
 「胎児の心音が80に低下しています!」「早く先生を呼んできて!」
塩ビ製のベンチシートから腰を浮かし、分娩室の中を覗くものの何も分かりはしない。
共に待機する不安げな義母と顔を見合わせた。
 どうしようもない焦燥感が足元から湧き上がってくるのを抑え切れない。
廊下の端から当直医が片腕に白衣を通しながら全速力で走ってくる。
当直医は僕に尋ねる暇も与えずに、分娩室に駆け込み大声で指示を出した。
 「サンクションカップじゃ駄目だ!」
 「カンシを持ってこい!」
緊急事態であることは、門外漢の僕でも分かる。
握り拳を固め身体を丸めギュッと強く目を閉じながら、ただ妻そしてまだ見ぬ我が子の無事を祈り続けるしかない。
 そして不意に目の前が開けた。分娩室から聞こえてくる微かな泣き声!
日々の営みの中で、世の多くの女性達が至極あたり前のように行ってきた、
しかし偉大な仕事を妻はついにやり遂げたのだ。力を込めて義母と握手を交わしながら、
ホッと息を抜いた僕は、ふと腕時計に目をやった。
 午前2時20分。いつしか時針は進んでいた。来るべき朝を迎えるために。
新しい生命が刻み始めたばかりの、まだ小さいが確かなリズムに促されるかのように。
トクン、トクン、トクン、と。

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