ESSAY

 第3回 優秀賞

猫と生徒達

松下 弘美 様 (兵庫県)


 大学を卒業する年、僕は迷っていた。友達は就職活動をして、早々と将来の職業を決めて行くが、本当にそれで良いのか。組織の一員としてやって行く自信がなかった。
そんな僕に父が言った。
「お前は小さい頃から教えるのが好きだったから、学校の先生になったらどないや?」
 家庭教師先でそんな話をすると、小学六年生のY文が言った。
「先生、塾を開いたら?」
「生徒をたくさん集めなければならないけど、簡単に集まるとは思えない」
「任しとって」
胸を張ってY文は言った。
 翌日、Y文から電話がかかってきた。十二人の生徒が、もしも塾を開くなら春から通ってくれる約束を取り付けたと言う。
「僕は人望があるからな」
 Y文は得意げだった。
 小さな古い一軒家を借りた。一室を僕の居住空間とし、二室を教室、ダイニングにコピー機やコンピュータを置き、僕を含めた講師二人の待機室とした。最初はそれで十分に思えた。
 そして、三月末に開塾するという前日のことだった。Y文が仔猫を拾ってきた。
「公園に捨てられて泣いとった」
 Y文は、それを塾で飼ってくれるように頼んだ。Y文の家はマンションだったから猫は飼えない。
断ることはできなかった。猫を飼った経験がなかった。なんとかなるかなという簡単な気持ちでいた。
 ところがその夜、足に強烈な痒みを覚えて目が覚めた。春の蚊かと思った。しかし、耳を澄ませど、唸るような蚊の音は聞こえない。やむなく再度寝床に就くと、また別の所が痒くなった。
結局六ヵ所刺されて、眠れなくなった。犯人を見つけるべく、灯りをつけ、目を凝らした。
大きく跳びはねる小物体を見つけた。生まれて初めて見た蚤だった。
 翌日、生徒が来る前に猫を風呂場で洗った。それから、殺虫剤を三種類買って来た。
だが、効き目はなかった。蚤は手強かった。
やがて、夕方になり、十二人の生徒達がやって来た。事情を話すと、みんな俄然目を輝かせた。
そして、蚤の掃討大作戦が始まった。一人一匹を目標に蚤を捕まえる作戦だ。
蚤は指で押し潰したつもりでいても、平気でまた跳ねる。蚤をせん滅させるまでに小一時間を要した。
だが、みんな笑っていた。
「しょうがない猫やなあ」
と言いながら、楽しそうだった。
 僕は、この子達とこれからやって行くのだ。猫の行く末と、子供達を重ね合わせた。
新生活はひょんなことからドタバタと始まったが、あの頃の生徒達からの賀状を眺めながら、それは愉快な思い出として、僕の中で立ち上がった。
 あれから猫も生徒も、多くの子を産み自分の命を広げて行った。
僕も年をとる訳だ。

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