ESSAY

 第3回 優秀賞

ロレックスがくれた最高の誕生日ディナー

大石 ふみえ 様 (神奈川県)


 私達の新婚生活は築30年のオンボロアパートから始まった。幼い日から、お嬢様育ちであった私は夫との結婚を反対され、親と大げんかして家を飛び出てきたもののアパートの湿気くさい一間の部屋と壁のうす汚れた黄ばみを見ていると、さすがに現実の厳しさを思い暗澹とした。
 しかし私は何よりも幸福だった。夫は事業を立ち上げたばかりであったが、どんな逆境にあっても、いつも底抜けに明るく常に明日を語る人だった。
すり切れた畳も雨漏りも何のその、明日は必ず今日より明るいと信じて日々を送っていた。
 二人とも大学出たての世間知らず、夫も坊ちゃん育ちだったが、親の援助を断り自分たちの力だけで生活するというポリシーだったので、家計は火の車であった。光熱費はもちろん食費にも事欠く日々が続いた。
 若かった私はとにかく毎日お腹をすかしていた。中でもとりわけ脂っこい牛肉が食べたかった。スーパーに薄い財布を持っていっても牛肉は高くて買えない。
霜降りのステーキを何枚も買っている他所(よそ)の奥さんのレジかごを見ながら自分は豆腐や豚こまを買う。正直生まれて初めて体験する貧乏はつらくみじめで哀しかった。
そんなある日、忘れもしない私の25回目の誕生日のことであった。
 アパートのくずれ落ちそうな物干し場から干した布団を取り込んでいると、いつもより早めに帰宅した夫がニコニコ笑いながら、布団を抱えた私に25本の大輪のバラを差し出した。そしてぶ厚い霜降りのステーキ肉と私の大好きであった銀座にある有名なレストランのナポレオンパイの包みも差し出した。
私は一瞬嬉しさで胸がいっぱいになったが次の瞬間「お金どうしたの」と険しい顔で夫に迫っていた。
聞けば夫は夫の父から譲り受けた高価なロレックスの腕時計を質入れしたのだという。
 私は言った。
「花だの食べものだの消えてしまうものにお金を使うなんてもったいないわ」
夫は少々憮然とした表情で「消えていく時間を演出して消えない思い出を作るんだ」と言った。
私はとにかく怒っている夫の顔がおかしくて、その内あふれる程の幸福を感じた。その夜、ピンクのバラ達に囲まれ久しぶりのステーキとケーキを味わった私は、世界一の幸福者だった。
しみだらけの襖も笹くれだった畳もその日ばかりは全く気にならなかった。
夫はその時「将来、きっと君を幸せにするからね、そして今日のよりももっと立派なロレックスの時計をプレゼントするよ」と言った。私はあまり本気にもせず、笑いながらその話を聞いていたが五年後それは現実となった。夫の事業は成功し私達は庭付きの一戸建てに住むことが出来る様になった。
そして夫は私に約束通りにロレックスの腕時計をプレゼントしてくれた。
その後も夫と私の信頼関係は決して消えることなく仕事のパートナーとしても人生の豊かな時を刻んできた。
 光り輝くロレックスの時計を見るにつれ、若かったあの頃を思い出す。
傾きかけた老朽アパートでお腹をすかせながらの家計のやりくりに疲れ始めた頃、ロレックスが私の誕生日を彩り、決して消えることのない若き日の思い出を刻んでくれた。
畑の隣りのガタピシする階段を上がった二階の角部屋での夫との温かいディナー。
愛と希望に満ちた新生活の素晴しい思い出だ。

ESSAY TOP

このページのトップへ