ESSAY

 第3回 佳作

響き

吉田 佐智子 様 (京都府)


 一月のロンドンは相変わらず鉛色の空をしていた。風も冷たく、コートの襟をたて足早な人の流れは変わらない。到着した夜、ホテルの部屋にジェームスから電話があった。空港へ迎えにいかれなかったことを詫びた彼に、「ここへは仕事で来たから」と冷たく答えた。そして、「今日も雨ね。いつでもロンドンには歓迎されていないみたい」と付け加えた。その言葉を否定しようと何か言いかけた彼に、都合がつきそうならこちらから連絡をすると言って切ろうとした時、「24日の金曜日、セントポールで6時に」遠くに彼の声が聞こえた。彼が指定してきた日は商談の4日間だった。連日の疲れに、この鉛色の空から降る雨がさらに拍車をかけた。とても笑顔で向かう気にはならなかった。約束の場所へは、5分前に着いた。商談が長びかなかった事が幸いした。カフェモカの好きな彼が待ちあわせにカフェ以外の場所を指定してきたのは初めてだった。だから、遅れるわけにはいかなかった。ジェームスは先に来て待っていた。軽く右手をあげて、はにかんだ。少し痩せた気がした。
 何も言わず薄暗い寺院の中へ導かれた。生暖かい空気が私を包んだ。胸に小さな緊張が走り、自然に帽子をとった。コツコツと響く靴の音しか聞こえない。規則正しく配列された椅子に二人ならんで座った。鐘だろうか。寺院内に音が響き、その後同時に幾重にも重ねられたパイプオルガンの音色と賛美歌が流れた。百人、いや二百人が奏でる歌声だろうか。一瞬にして、はちきれんばかりの力が漲(みなぎ)った。足元をつたって体内に響きわたるパイプオルガンの音色と、人の声の透明度の高さに圧倒された。目の前のステンドグラスや背の高い燭台の灯がキラキラ輝きはじめた。その理由(わけ)が涙だとわかるまでにそう時間はかからなかった。いつまでも自分の体の震えを止められなかった。どれ位時間が過ぎたのだろう。
 時計をみやると10分も経過していなかった。
 自分はいつから笑わなくなったのか。いつから時間ばかり気にするようになったのか。いつから感動しなくなったのか。いつから会話を簡潔にすますようになったのか。いつから冷たくなったのか。いつから感謝の気持ちを表さなくなったのか。いつから泣かなくなったのか。いつから優しくなくなったのか。いつから一人でも生きていかれると錯覚するようになったのだろうか。どれ一つとして答えられない。
 ジェームスは私としっかり握られた手をゆるめもせず、正面を向いたままこう言った。「ロンドンで暮らすのも悪くないだろう」雨はまだ降り続いている。「ロンドンは今日も雨なの」そう言って友人を迎えられる日も、この雨を許せる日も、そう遠くないと感じた。

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