ESSAY

 第3回 佳作

父さんのとけい

渡辺 華 様 (東京都)


 黄色い絨毯を織り上げた銀杏の樹の下にある、大学構内のベンチ。友人とたわいのない話をしながらふと左腕を見ると、時計が止まっていた。やれやれ、もう二年半も使ってきたものな・・・。電池はいつかなくなる、という当たり前のことに、普段は気づきもせずにいる。予防線を張り忘れると言うのだろうか、慌てて時計屋さんに駆け込んだ。
 何の変哲もないTIMEXの男物で、酷使しているため所々に傷がある。部活の合宿で田んぼに落ちたサッカーボールを拾って泥だらけになった。サークルの仲間と小川ではしゃいでずぶ濡れになっても、防水加工を施したそれは全く平気の顔。定期試験の途中では、残り時間を確認して真っ青になったり。よそゆきには、OMEGAの華奢なブレスウォッチを着ける。しかし、大学の部活やサークルの活動には必ずこのTIMEXと一緒に行動している。もう、二年半も。
 十八歳、大学入学のために上京して、一人暮らしが始まった。引越しは三月の末。清水の実家から父の運転する車で、東名から首都高に乗り、嘘のように高いビル群と上空のスモッグに圧倒されながら。
 新生活の拠点は大学近くのワンルーム。荷物を降ろし、一階の小さな部屋へと運び込む。黙々と・・・そう、父は感情を大きく表現することがない。いつも静かに、家族を包む。中学生の頃はそんな父の気持ちがわからず、よく衝突したものだった。
 翌日は仕事だからと、入学式に出席する母と私を残して、父はひとり空っぽになった車に乗り込む。唐突に「おまえ、時計は持っているのか?」と聞く。
 田舎で学校と家を往復するだけの生活に、腕時計は必要なかった。電車はきっかり三十分に一本。駅にも通学路の商店街にも、高校の教室にも当然のように、大きな時計があった。私は日々まもられ、そして時計は疑いもなく正確に、日常の中にあったから。首を横に振る私に、「これ、持っとけ」と自分の手首から無造作にはずした時計を、軽く投げてよこす。そして、都会での大学生活が始まったのだった。
 これから私は、いくつかの時計を身に着けるだろう。高価なもの、大切な人から貰うもの・・・それでもこの男物のTIMEXの傷は、まだまだ増えつづけるだろう。
 父の腕からはずされたときの温もり。全身で守られていたことを、今になってありがたく反芻する。電池はなくなるものだから、自分で換えに行かなければならない。二十一歳になり、忘れかけている現実に気づく。オトナになりかけている自分がいること。
 わずか十分足らず、時計屋さんから再び正確な時を刻みだした時計を受け取る。この先、私にも、父のように、誰かを全身でまもる日々が訪れる。

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