ESSAY

 第5回 大賞

一秒一秒に思いを込めて。

西堀 博久 様 (東京都)


 秒針が一秒一秒思い出を重ねていく。そんなひと時があった。
あれは、私が東京へ出稼ぎに出ていたころのこと…
 夜、誰もいなくなった事務所で家族からの電話を待っていると総務課長が入って来た。
「おや、めずらしいね。こんな時間に」
「くにから電話がかかってくるもんで」
「そうか、ずいぶん帰ってないんだろう、そりゃ楽しみだ」
気をきかせてくれたのだろう、残業をしていた課長はそう言い置いて部屋を出て行った。
当時は電話がまだ普及していない世の中で遠距離になると
一通話三分ごとに高い通話料をとられた。それでも、夜八時を過ぎると割引料金になるので、
電話はいつも八時過ぎと決めていた。もちろん貧農の私の実家には電話など有るわけがなく、
裕福な知り合いの家からかけさせてもらうのだった。
もし、私が電話機の前に居なければ、電話料金が無駄になってしまうので、
前もって時刻を決めておき、いつも電話の前でこうして待っているのだった。
 静まり返った事務所に電話のベルが鳴り響いた。
腕時計で秒針の位置を確認してから受話器を取るとすぐに「とうちゃん?」という女房の声が
聞こえてきた。「ああ」「いま、カズに代わるね」いきなり末っ子の和夫の声が耳もとで飛び跳ねる。
「とうちゃん!いつ帰って来る?」「まだちょっと分かんねーな」「だめだそんなの!いつだ?」
「今度の正月は帰っから」声が遠くなり、とうちゃん正月に帰れるって、
そう回りの家族に言っているのがわかる。
ほれ、もういいだろう、女房が和夫の受話器を取り上げた。
「お父ちゃん。こんど学校で書道展があるんだけど、字は何にしたらいいかと思って…」
長女はあいかわらずのんびりしている。そんなこと今相談しなくてもええから、
女房にたしなめられて「正月待ってっから」と慌ててつけ加えた。
ほら、じっちゃん!とうちゃんだよ。東京からだ。私の父に代わる。
なかなか話すことができない。じっちゃん早くという声にせかされて
「こちらは皆、元気にやっております。そちらは元気でやっていますか」
緊張のためか、ていねいな標準語になってしまっている。
ほれ、ばっちゃん急いで。東京からだよ、わしゃええから、そんなこと言わんと、
そんなやりとりがあってから蚊の鳴くような声が聞こえてきた。
「あんまり無理すんな…体に気ぃつけろ…」
お袋の声は途中で何度かふるえ消え入りそうになった。「ああ心配すんな」
腕時計を見るとそろそろ三分だ。一秒でも超過すれば通話料が倍になってしまう。
「とうちゃんそろそろ三分だから」「ああ分かってる…」
「じゃあ切るよ…」「ああ、はやく切れ…」
ためらうように急ぐように電話が切れ、ツーツーという音が残った。
この音も故郷から聞こえてくるのだろうか。
私はそのまましばらく受話器を耳に当てたままにしていた。

ESSAY TOP

このページのトップへ