ESSAY

第5回 優秀賞

生きていた柿の木

永澤 てふ 様 (東京都)


 それは日本が、あの忌まわしい太平洋戦争に突入する三年前のことでした。
 私が嫁いだ代々木の家の庭には、一本の大きな渋柿の木がございました。
毎年実る柿を、娘たちがもいでは甕に入れ、それに良人が焼酎を吹きかけ、
一月ほど保存いたしますと、渋みは豊潤な甘味に変わり、なんとも楽しみな
冬のおやつとなっていたのでございます。
「おかあさま、なぜ渋柿が甘柿になるのでございますか」、
そう娘に問われましてもなんとも答えようがなく、
「ほら、お父様がお酒を飲まれると甘い香りがするでせう。渋柿も酔ってしまって、
甘くなってしまうのよ」などと言いますと、良人も負けじと、
「おまへたちが悪戯すると、おかあさまも、ほれ、渋柿になる」などと言い返し、
娘たちはコロコロ笑い転げておりました。
 そんな安らかな秋を過ごせたのも束の間でした。
千九百四十一年、十二月、あの真珠湾攻撃からはじまった太平洋戦争は、あれよあれよと言う間に
戦況が悪化。渋谷区の役人であった良人は戦争突入から、一年目の夏に徴兵され、南方へ出兵し、
私も六歳を頭に三人の娘を抱え、知人のつてで川崎市の登戸に疎開することになりました。
 当時登戸には陸軍の軍事研究所があり、いずれここも空襲を受けるのではないか、
というもっぱらの噂でしたので、私は生きた心地もしませんでした。
 また、戦争も二年をすぎたころには、良人からの手紙も絶えてしまい、
私は眠る娘の頭をなぜながら、この子たちのために生き抜くと覚悟をしたものです。
 そんな夜に思い出すのが、あの渋柿との思い出でした。
毎晩のように爆撃される東京、そして千九百四十五年、三月十日、東京大空襲の夜、
私と娘は紅蓮の炎に真っ赤に炙り出された空を、多摩川縁から、見ていました。
きっとあの渋柿も焼かれてしまったに違いない。
燃え落ちる渋柿の木は、便りのない良人の姿と重なって、私の胸に迫りました。
 空襲の夜が明けた朝、私は娘の手を引いて電車の鉄路を一路代々木へと向かいました。
家族の思い出が実る渋柿の安否をこの目で確かめたかったのです。
やはり、代々木の町も焦土と化していました。どこがわが家か分からない、黒焦げの町割に、
しかし、わずかな木々が燃え残っていました。
その中の一本が、なんと、あの渋柿だったのです。
幹の腹を炎で焼かれ、満身創痍でしたが、確かに私達の柿の木です。
よくぞ生き残ってくれた。その思いは不明の良人への思いでもありました。
 その渋柿の木は、戦後六十年を経た今でも、我が家の庭で年輪を重ねています。
幹の腹はコンクリートで固められ、なんとも痛々しい姿ですが、毎年実を付けてくれます。
それは結局、遺骨さえ戻らなかった良人の形見ともなりました。
「おまへたちが悪戯すると、おかあさまも、ほれ渋柿になる」
 毎年、秋になると良人の声が聞こえる気がいたします。
艶やかに光る柿の実。そのすべてには、在りし日の家族の思い出が詰まっているのですから。

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