ESSAY

第5回 佳作

鬼の涙

徳味 佐保子 様 (兵庫県)


「大学に行かせてな」
三人の子供たちがそう言った時に、私は夫婦二人ぽっちになる覚悟を決めた。
彼らが希望する大学は、家からあまりにも遠く離れた場所にあったのである。
「受験、入学、引っ越し」と三人分のイベントが五年の間に繰り返されて、
私たち夫婦がとりまく環境は、めまぐるしく変わっていった。金策やら、マンション探しなど、その場その場を乗り切ることに必死になって時を過ごす毎日。
「二人ぽっち」の覚悟を、母が忘れてしまった頃に、三人の子どもたちの姿は家には無くなっていた。
「うそでしょ」夫婦二人ぽっちという現実を受け入れたくない母は、
あわてて家族旅行を思いつく。
 盛大にやりたいが、そこは貧乏暮らし。夫の会社で山小屋とを安く借り、
一夜限りのカラオケ大会を企画したのである。
 大学院生の長男は一発で参加を決めてくれたが、教員採用試験にチャレンジ中の娘はためらった。デートとアルバイトに明け暮れる次男も、返事を後日に持ち越すと言う。
「悪い話じゃないでしょ」『参加無料』を強調して、夢中で呼びかける母。
家族旅行はこれで最後だなと予感しながら、二週間後にやっと現実にこぎつけた。
 借りる予定のワゴン車が盗まれるハプニングが起こり、小さな乗用車に
五人を詰め込んでの長い旅。久し振りに顔を会わす家族が、かつてそうであったように、
嬉しそうに雑談に花を咲かせている。
「家族っていいな」
地元のスーパーで買い込んだ安い酒と肴の飲み放題食い放題。
おまけに気取らない歌い放題とあって、その場はあっという間に盛り上がる。
若者が数々のニューミュージックを披露すれば、親父は演歌で勝負を挑む。
それじゃあ私もと、古い青春歌謡で気を吐く母。
「ないじゃいそれ」「うまいなあ、あんたら」「その物まね、最高やわ」あっと言う間に時が過ぎて夜が更けた。
 若者たちに疲れが見え始めた頃、母がマイクを握る。
これがとどめかとばかりに、古い演歌を歌おうとした。
イントロを聞き唇をなめ回す母の脳裏に、幼い頃の子供たちが甦る。
 笑い転げたり泣き叫んだり。怒ったり慰めたりいじけたり。
三人三様の生い立ちに双親の影が懐しくからみ合い、いっぱいの思い出が母の胸をふさいだ。
「やばい。鬼の目にも涙やわ」予告無くあふれる涙に、母はなすすべを失った。
酔いの回った若者達の目に映る母の初涙。しばしとまった子供三人が
泣きじゃくる母の歌をにこやかに合唱し始めたは、その直後の事だった。
「母さん、いつでも助けるよ」潤んだ六つの目が、そう言っていた。
 いつの間にか、肩に置かれた夫の手をわしづかみにして、私は喜びに震えていた。
この夜こそが、私の人生の折り返し地点であったと、今もしみじみそう思う。

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