ESSAY

第5回 佳作

泣き虫主人と過ごす時間

広井 直美 様 (神奈川県)


 主人は五十歳過ぎて、涙もろくなった。
テレビを見ては泣いて、本を読んでは泣いて、通りすがりの老人を見ては泣いて、
電車の赤ん坊を見ては泣いていた。
「健気に生きている姿を見ると、涙が止まらない」と言いつつ、
涙と鼻水をティッシュで拭いている。
 十八歳の娘が嫁ぐ日には、どうなることやらと、私は空恐ろしい気持ちで
泣き虫主人を見ていた。
 しかし、娘が嫁に行くより前に、まさかの息子が独立宣言をして出て行った。
 二十歳の息子は、自宅から通える範囲に大学があり、ものぐさで、
タテの物をヨコにもしない横着ぶりだったために、自炊や選択、掃除を
自分でしなければいけないアパート暮らしなどは無縁と思っていた。
 ところが、息子は大学に通いつつ、手に職もつけたいと、夜間の専門学校にも通うことになり、大学・専門学校・自宅の三角形を一日で往復することが困難となり、
おまけに合コンだアルバイトだと多忙に窮まり、ついに大学近くのアパートを借りて
一人暮らしをすることになってしまった。
そして、狭い六畳のボロアパートなのに、息子は喜々として一人暮らしの生活を楽しんでおり、全く親元には寄りつかなくなってしまった。
 先日、主人と私は夏物の息子の洋服等を車に入れて、
アパートに届け、その後近くのレストランで三人で食事をした。
おいしい中華料理を頂き、「じゃあ、体に気をつけてね」と言って別れると。
息子は「ごちそうさまでした」と後もふり返らずに言い、スタスタとアパートへ歩いて行く。
私達は止めてあった車に乗り込んだ。
 ふと、運転席の主人を見ると、涙で顔がぐちゃぐちゃである。
「あの子は(息子のこと)妹よりも母さん思いで、マザコンじゃないかと秘かに心配していたのに…。すっかり親の手元から離れて、飛び立ってしまったよ」などと言いつつ、主人はおいおい泣いている。
「そんなに泣いて大丈夫なの?車の運転できる?」
「できない」
「じゃ、少し気を静めてからにしようか」
 レストランの駐車場で、中年夫婦二人、暗がりの車の中で、
ティッシュをごそごそしている様子を誰かに見られたら、何と思われるだろうか。
まさか、泣き虫亭主が、息子の親離れに涙して泣いているなどとは、誰も思わないだろうなぁ。
 結婚して二十二年が過ぎ、これからも主人の涙に付き合っていかなければならない私は、泣いている暇などありそうにないと思う。
 だが、子供が巣立ち始めた今こんな時間も、家族と過ごす素敵な時間となっていくであろう。

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